fulura’s blog

毎日のたわいもない記録。現在、大学生。

反骨心の意味を調べた日

最近、思い出すことがある。

それは、

友人からの指摘や教師からの痛い一言

に対して反抗的だった自分。

「何を言ってるんだ」と

都合の悪いことは左から右に流し

反骨心を正義に、素直にならなかった頃のこと。

 

当時は腑に落ちなかったけれども

どこかで気にはなっていて

たまに脳内で反響しだす

それらの思い出の意味を

ここ最近、少しずつ実感し始めている。

 

たとえば、かつて頼りにしていた人が

「芸能人では有村架純がタイプだ」

と言っていた理由は

たぬき顔なだけではなく

人間性を好いていたのだろう

ということ。

 

当時は、やかましいなぁと

あまり好きではなかった

理学療法士のお兄さんが

おちゃらけていた理由は、きっと

受験を目前に控えた私の気持ちを

ほぐすためだったということ。

 

私の大変長かった父への反抗期も

相当なストレスだっただろうに

生まれてからずっと変わらぬ愛を

注ぎ続けてくれた父は

並大抵の器ではないこと。

 

曲がったことを好まず

真っすぐな物言いで

生徒を鼓舞していた体育教師が

「世界には矛盾がいっぱいあるよ」

と言ったのは

ただの典型文ではなく

35年の人生の中で得た知見なのだということ。

 

 

「あぁ、あの時のあの人の言葉は、行動は

 こういう気持ちでこんな意味があったのか」

と実感できることがとても嬉しい。

日々を積み重ねる喜びがここに詰まっている。

 

当時、気づけなかったこと、

あるいは気づこうとしなかったことは

今振り返ると、もったいないと感じるし、

悔しい。

気づけなかった分、伝えられなかった

ありがとうも

ごめんなさいも

人生20年にも達していないのに

たくさんある。

 

この文章を書いている今も、

納得できていない色んな事象は

消化されずに私の中に残っている。

これらを全部わかろうとするのは

この先何かを得る機会を

逃すこととも同義なのかもしれない。

けれど、全部全部諦めない。

そう強く決めたから。

こぼれ落とした

ありがとうも、

ごめんなさいも、

喜びも、

楽しみも、

好きも、

この先感じる気持ちと一緒に

掬いあげて

全部全部伝えていこう。

時には苦しみも。

 

一人じゃできないことだから、

「伝える」って。

 

どんな出逢いにも感謝。

 

身に染みる〈わかった!〉を

これまでの経験から

腑に落とせたことが多かった

2024年、GW中盤。

 

ありがとう, My sweet memories.